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ある日、突然、不思議な世界に迷い込んでしまいました。今は、その目に見えない世界を通じて、多くの人々の悩みを解決しようと試みています。毎日起こる不可思議な出来事を「私らしく」お伝えしたいと思います。


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■ はじめに ■

「愛の伝言 心迷うあなたへ」6月刊行。
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悩みごとのある方、人生ってなんだろう?と思っている方にオススメです。
読んでいただけると、とてもうれしいです!
 
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人は、とても簡単に

「楽しめば良い」というけれど、

楽しむということくらい難しいことはありません。

楽しむには、楽しむための環境がそろっていないと楽しめないからです。

楽しむ環境を整えないで楽しむことは出来るでしょうか?

たとえば、いじめられてる環境で楽しむことは出来るでしょうか?

たとえば、仕事でヘトヘトになっている毎日を送っていて、

楽しむことは出来るでしょうか?




馬鹿話をしてゲラゲラ笑ってるのが楽しむこと?

気分転換してスッキリするのが楽しむこと?

何かに夢中になってることが楽しむこと?

好きなものを観たり聴いたりすることが楽しむこと?




苦しいことを苦しいと思わずに楽しめば良い、

と、言う人もいるけれど、

物理的に無理です。

苦しいことは苦しいのです。

そこに楽しい環境はそろっていません。

苦しいことの先に希望が見えるのなら、

その希望を胸に頑張ることは出来ます。




人生が自分の思い通りになったら楽しくない?

と、言う人もいるけれど、

高い意識でもって自分の思い通りにするのと、

低い意識でもって自分の思い通りにするのとは、

まったく内容が違います。



高い意識で「思い通りにする」のであれば、

あなたが思うことと他人の思うことが一致しているので、

あなたの望みを形にすることで、

周囲も喜びます。

でも、この場合、「楽しい」という感覚にはなりません。

一瞬の「達成感」は得られます。



高い意識の場合は、

山登りにたとえることが出来ます。

山の頂上が目標です。

頂上(目標)にたどりつけば、達成感を得られますが、

すぐに、山から下りなければなりません。

そのまま頂上にい続けることは出来ません。

なぜなら、そこは空気も薄いし、食べ物も住むところもないからです。

早く下りないと死んでしまいます。

登るのも大変ですが、下りるのも大変です。

登って達成感を得られたら、すぐに下山。

そして、次の山の頂を目指して準備するのです。




低い意識の場合は、

思い通りにするというのは、

「したいことをする」ということ。

したいことをするのが実際、周囲の迷惑になっていようが関係ありません。

「したいからする」のです。

でも、当人は、自分がしたいことをすると周囲の人も喜んでくれる。

と、思い込んでいます。



低い意識の場合は、

一人芝居にたとえられます。

自分の妄想の中でしたいことを見つけて、

それをするのです。

それが楽しいのです。



この場合の「楽しむ」というのは、

社会性を無視しています。



「楽しめば良い。たとえ、それが社会性に欠いていたとしても」

なのか、

「楽しめば良い。ただし、社会的にも認めてもらえる形で」

なのか。

「楽しめば良い。誰にもわからないところで」

なのか、、、、。



同じ「楽しむ」でも、条件があるのかないのかで大きく意味は違ってきます。



「楽しめば良い。ただし、社会的にも認めてもらえる形で」

という場合は、相手もあなたが楽しめる環境を作る手助けをしないと成立しません。

つまり、相手の協力あって「楽しめる」のです。



「人生、楽しんだらいいんだよ」というのは、

そのために、誰かに協力してもらいなさい、という意味ともとれるし、

一人の世界を持ちなさい、という意味ともとれます。




「楽しむ」というのは、とても難しいことばなのです。



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自分の中の分析不能な感情や気持ち。

それから逃れたくて、科学的思考に頼るのと、

宗教的思考に頼るのは、

まったく同じです。



科学的思考に逃げると、

すべてを物理現象に結びつけ、

私たちの存在自体、原子と分子の集合体。

遺伝子の作り上げた何か。

感情なんて、物事を冷静に分析していないから沸き起こる

勘違いや思い込みの産物、、、。

という考え方に偏るでしょう。



同じように、

宗教的思考に逃げると、

すべてを神や霊に結びつけ、

自分の意思の入る隙もない。

人生は、すべて神の計らいであり、運命からは逃れられない、、、。

という考え方に偏るでしょう。




そうではなく、

自分の行動の責任をとり、

しっかりと現実をみつめて受け入れるために、

科学を必要とするのなら。

宗教を必要とするのなら。

そうすれば、

科学と宗教は、何の矛盾もなくお互いを相容れるに違いありません。






 
「魂が感じる神の存在ってなに?」

「計り知れない存在を感じることは出来ないのでは?

なぜなら、それは計り知れないものだから。 」

もし、あなたがそう思っているとしたら、、、、。




どうしようもない苦しみや悲しみを経験し、

それをしっかり受け止めて生きようとする人は、

必ず「計り知れない存在」を感じます。



逆に、

苦しみや悲しみを経験したことがない、

あるいは、それから逃げている人は、

「計り知れない存在」を感じることはないでしょう。




大切な人・ものを亡く(失く)したとき、

人は、とてつもない苦しみや悲しみを経験します。

この苦しみや悲しみは「計り知れません」。

「計り知れない」ものを、「計り知れるもの」で分析しようとしても、

無理です。

それは、「計り知れないもの」なので分析不可能なのです。

「計り知れないもの」は「計り知れないもの」で向き合うしか、

それを乗り越えること、、、、乗り越えるというのも少し違うかもしれませんが、

それ以外、方法はないのです。



そこに私たちは、「神」といわれる「何か」。

「計り知れない存在」を感じるのです。

それを感じている私たちの中にある「計り知れない何か」を、

私たちは「魂」や「心」と呼ぶのです。





 
魂や心、、、の存在がよくわからない。

と、言う人は少なくないかもしれません。



つまり、物理的な目に見える可視現象では、「見えない」ものだからです。

「見えない」=存在しない

と、科学は言います。



それが科学の定義だからです。




「魂ってなに?」

魂ってなんでしょう?

科学が発見していないので、それにあてはまる科学的な言葉はありません。


魂の存在を否定しようが肯定しようが、

何の問題もなく生きていけます。

ブラックホールが存在しようがしまいが、

私たちは何の問題もなく生きていけます。

重力だろうが引力だろうが、

その存在を知らなくても私たちは生きていけます。



科学は「ある」ことを前提に研究がなされます。

「ない」ことを証明するために科学は存在しているのではありません。


魂は「ある」ということを前提にすれば、

魂の存在は証明されるでしょう。

でも、「ない」ことを前提とするならば、

こんな馬鹿馬鹿しい話はありません。



「宇宙空間に浮かぶティーポッド」が仮に存在していたとしても、

誰がそれを「ある」ことを前提に研究しようとするでしょう?




「魂は存在しない」と、思う人にとって、

「魂の存在」の証明ほど、ばかばかしい話はありません。





よって、「魂ってなに?」と思う人、

魂は「ない」と思っている人にとっては、

「魂は存在しない」

が、正解なのです。

 
映画「ファニーゲームUSA」。

相棒がgyaoの無料配信の中にあるのを見つけて、

「これ、めちゃくちゃイライラするけど、面白いから観てみて」といわれ、

観てみました。




正直な感想。

観てる最中は、確かにイライラします。

ストーリー展開がとにかくイライラもやもや。

ところが、観終わった後は、ものすごく考えさせられます。



「暴力ってなんだろう?」と。







※ 以下、ネタばれあり



暴力を振るう二人組みは、

一見、好青年を演じています。

物腰の低い態度。相手の顔色を伺いながらの紳士的な物言い。

紳士的な態度なのに、

することがとても無礼で失礼。

でも、一見物腰が紳士的なので、

獲物は油断します。

本当は残忍な殺人鬼なのに、羊の皮をかぶっているのです。



彼らは、獲物を油断させておいて、

いきなり牙をむきます。

いきなり牙をむかれるので、獲物はショックで動けなくなります。


あとは、じわじわと獲物をいたぶるだけです。



いたぶるのをやめたかのように見せかけて油断させておいて、

また捕まえてはいたぶるのです。



そして、最後は、面倒くさくなって、

あっさりと獲物を殺します。



観客は、獲物が牙をむいて殺人鬼をやっつける時を、

今か今かと待ちわびるのですが、その期待はあっけなく裏切られます。




途中で、時間が巻き戻るシーンがあります。

獲物の女性が殺人鬼を銃で撃ったあと、

時間が巻き戻ります。

「非力な獲物が殺人鬼を銃で撃つ?」そんな非現実なことは起こらない。

と、いうことを、時間が巻き戻るというこれまた非現実な手法で

訂正されるのです。





最後のシーンで、殺人鬼二人が「現実と虚構」について会話しています。

暴力は、強いエネルギーを持つブラックホールのようなもので、

弱い獲物はそれに引き寄せられ、決して逃れることは出来ない。

暴力から逃れるには、それ以上に強い暴力でないと無理なのだ、

ということが言いたい、、、のは、アメリカ映画です。

ヒーローは悪よりも強い暴力でもって、悪をやっつけるのです。



この映画は、獲物が最後まで弱い獲物で、

突然強くなったりするような非現実的な展開は微塵もありません。



強い遺伝子が生き残るとしたら、

暴力的な遺伝子が生き残るのだ、としたら、

暴力がこの世からなくなるということは、

遺伝子が弱くなり、絶滅することを意味する、としたら、、、、。

つまり、生き残るためには、いかに暴力的でなければならないか、、、としたら。



3次元的に考えたら、とどのつまり、この結論に達してしまうでしょう。





でも、現実は違います。

この映画も、もっとよく考えながら見たら、

殺人鬼は、用意周到です。

何度も同じような殺人を繰り返しています。

つまり、よく考えて行動しているし、経験も積んでいるのです。


逆に、獲物の側になった人たちはどうでしょう?

まさか、獲物になるとは思ってもいないので、

何も考えていません。準備もしていません。

行動も行き当たりばったりです。



どちらに分があるかなんて一目瞭然です。



この世は、暴力が勝つのではなく、

よく考えて経験を積んだものが勝つのです。

非暴力・暴力は関係ありません。




より熟考したものが勝つ、のです。






 
前記事を書いたあとで、

Tさんがご相談に来られ、いろいろお話をしました。

そして帰られたあと、電話をいただきました。



「今日のブログを読んだんだけど、、、、。

あの話って、私のことですか?」と、Tさん。

前記事の内容がまるで今の自分の状態を書いてるようで、、、

とのこと。



不安。ざわざわとした感じ。自分じゃないような感覚。

ここ最近、感じていたことと全く同じだったようです。

老人にも心当たりが、、、、とのことでした。



前記事の内容は、昨夜、私が感じた不可思議体験です。

ブログを書いたのは、Tさんが来る前でした。

Tさんが私のブログを読んだのは、相談から帰ったあとです。




誰が何のために私に伝えようとしたのか、、、、

老人の男性は、Tさんのために、私に「何か」を伝えようとしたのです。



と、いうことがわかって、私もすっきりしました(^o^;)。

Tさん、連絡ありがとう。

 
昨夜、急に不安を感じました。

なんとも言えない心労と、ざわざわとした感じ、、、、。



明らかに「私ではない」感情と思考。


急いで携帯のビデオで自分を撮影してチェックしてみました。

私の顔が、年老いた男性の顔に見えます。



あ~~~、誰か(何か)に憑かれた~~~。



1時間半ほどたつと、急に気分がラクになり、

ビデオで撮影してチェックしてみると、

元の私の顔にもどっています。



顔立ちのはっきりとした骨格のいい男性でした。
(老人でしたが)

負けん気の強い性格で、

羨ましいと思った相手に「勝ちたい!!」と強く思う性格でした。


私の分析では、

羨ましい相手に勝ちたい!と思うことが、この男性の問題点です。

羨ましいと感じる部分がその男性の人生の的を得ていないのです。

ないものねだり。。。?とも思えるし、

他人の芝生は青く見える。。。。?とも思えます。

その男性の人生において、

もっと大切な何か、しなければならない何か、をほうっておいて、

羨ましいと感じる相手と同じ土俵に立とうとしていました。




いったい、この男性は誰でしょう?

私を通じて誰に何を言いたいのでしょう?



一見、神経質そうな、

いつも眉間にしわを寄せているような、、、、

男性(老人)でした。

(そして胃が悪いようです。)





こういう非日常的な出来事が、

頻繁に起こります。

これも、現実なのです。







 
進化生物学者のリチャード・ドーキンス博士は、

「神は妄想である」という本を書いています。



人々の中の妄想の神。

一部の学者の中では、

「空飛ぶモンスタースパゲッティ」や「ピンクのユニコーン」

と呼ばれるものは、

妄想の産物であって、存在しない。

特に、ドーキンス博士は、

妄想の神を信仰するものは、

悪魔信仰である、と。

妄想の神のもとでなら、何をしても許されると信じているからだ、と。


キリスト教であれ、何の宗教であれ、

宗教そのものが非科学的であり、悪魔信仰なのだ、と。





私の見解では、

妄想は、脳の働きによるものです。

脳は、性質上、死や破滅へとむかいやすいものです。
(6月刊行の私の本「愛の伝言 心迷うあなたへ」をご参照ください。

脳と心の違いをわかりやすく説明しています。)



脳の働きによる、、、つまり、脳で理解され分析され処理された神は、

脳以上の存在にはなりえません。

脳は3次元の存在です。

つまり、3次元の神(脳の妄想の産物)は、

破壊や破滅、死を導く信仰であるのは自然(当然)です。



あえて、神を語るなら、

脳で語るのではなく、

心や魂で語らなければなりません。



ドーキンス博士の言うように、

脳の働きにより作られた神は、

単なる妄想です。



心や魂が感じる神は、

私たちには計り知れない存在です。



科学的にどう呼べばいいのかはわかりませんが、

心や魂は、「何か」を感じています。

 
木や石には精霊が宿っている、、、、といいます。


科学的に考えると、「そんな馬鹿な。精霊を見たことあるのか?」

という疑問がわいてきます。

「見たことある」と答えれば、

「精霊は見えるのか?」という疑問が浮かび、

「精霊は見えない」と答えれば、

「見えないものが見えるのか?矛盾しているじゃないか」

という話になります。



魂も同じです。

科学的に考えれば、「魂は存在する?しない?」の答えは、

魂は見えないし、証拠もない。

よって、「魂は存在しない」ということになります。



私の見解では、

魂は時間とともに存在しています。

時間は見えません。

けれど、私たちは時間の存在を知っています。

時間が存在する証拠が発見されたからです。


では、物質が物質の形を成しているのはどうしてでしょう?

分子と原子の規則正しい配列によって、物質は物質の形を保っています。

たとえば、

水素と酸素が結びつくと水になります。

単純なように見えますが、

実際は、水の存在する惑星を探すのは大変です。

水素と酸素が結びついて水になるには、

かなり複雑な条件がそろっていないと物理的に不可能なのです。


複雑な条件がそろうには、膨大な時間を要します。

気の遠くなる時間を要して条件がそろい、

そこではじめて、水素が酸素と結びついて水になるのです。


数多くある原子や分子の中で、

水素と酸素が結びつく、、、、。

この二つを結びつける力(エネルギー)はなんでしょう?


私の見解では、エネルギーは4次元に存在しています。


3次元の原子や分子が、4次元のエネルギーによって結びつき、

5次元の時間を加えると、

別の3次元物質へと変化するのです。


ここでおもうのは、

単に時間を加えるだけで別のものへと変化するくらい、

物理は単純な存在なのか?ということです。

時間以外の「何か」が加えられることによって、

別のものへと変化すると考えるほうが、

より自然ではないか?と考えるのです。


その「何か」は、「魂」や「精霊」と言われているものではないか?

と、思うのです。

「魂」とか「精霊」という表現はファンタジー的なので、

違和感がありますが、

違う表現が見つからないので、なんと呼べばいいかはわかりません。


時間は、時間のみが存在しているわけではなく、

時間と「何か」が合わさって存在している、、、、と、

考えられないものでしょうか?


私たちが「時間」を発見したのは、

目に見えない時間を知覚したからです。

時間を知覚した(私たちが持っている)センサーはなんでしょう?

頭脳でしょうか?

では、頭脳を動かしたエネルギーはなんでしょう?

思考でしょうか?

思考は、何の目的でもって頭脳を動かしたのでしょう?

何かを知りたかったから、、、、、

では、何を知りたかったのでしょう?

「時間」を知りたかったから。

なぜ、「時間」を知りたかったのでしょう?



ただ、単に「時間」の存在を知りたかっただけなのでしょうか?



いいえ、私はそうは思いません。

「時間」という万物に共通する存在を知ることは、

万物すべてが共通した「何か」を共有しているということを、

確信したかったのではないでしょうか?



すべては、時間とともに変化していきます。

何一つとして例外はありません。



物質が物質の形を成しているのは、

魂が宿っているから。

遺伝子が遺伝子としてなしているのは、

遺伝子に魂が宿っているから。

魂は時間とともに存在していて、

万物すべてが時間とともに変化するけれど、

その変化の中に魂が宿っている、、、、。



そう考えたほうがより自然ではないでしょうか?



 
前記事で、

脳による思考は目的達成のために存在していると書きましたが、

脳は分析するのが本来の仕事です。

脳による思考は分析により目的を達成しようとします。



脳が設定する目的と、

心が設定する目的は違います。


そうすると、脳が設定する目的の達成のための思考と、

心が設定する目的の達成のための思考が存在するということになります。



脳は3次元に存在しています。

心は6次元に存在しています。


脳の設定する目的は、3次元レベルの目的です。

心が設定する目的は、6次元レベルの目的です。


思考や感情・行動は4次元です。


4次元から見れば、3次元は一つレベルが低いです。

つまり、脳の設定する目的は、

非常に3次元的、、、、わかりやすくいうと目先の目的、、、、なのです。



4次元から見れば、3次元の目的を達成するのは、

そんなに難しくないように思えます。

上から下を見下ろすと物事はよく見えるものです。

実際、そんなに難しくはありません。

けれど、4次元の思考からすると、

3次元の目的の達成は、自分自身のレベルを低くするようで、

居心地が悪いのも事実です。


しかも脳は、絶えず目先の問題を見つけてくるので、

絶えず目先の問題を片付けねばなりません。

目先の問題に追われていると、どんどん自分自身を低めるようで、

どんどん居心地が悪くなります。


たとえば、「今日仕事でミスをした」

「今日、人間関係でトラブった」

「今日、彼氏と喧嘩した」

「今日、お金に困った」

「今日、、、、、」

というように、絶えず、目先の問題に振り回されるのです。



心は6次元です。

4次元の思考からみると、6次元は見上げねばなりません。

下から上を見上げると見える範囲には限界があります。

たとえば、地上から空をみあげて、宇宙が見えるでしょうか?

見えるのは空だけです。

宇宙は見えません。


心の目的は、思考では計り知れないのです。

なので、魂や心の声を聞きながら思考しながらでないと、

達成できません。

魂は時間とともにあります。

魂の声を聞くということは、時間の声を聞くということです。


タイミングをみながら、心の声を聞きながら思考しながら、、、、

それが的をえていれば、

心の目的を達成することができます。

心の目的を達成するのは容易ではありません。

けれど、

心はレベルが高いので、

心の目的を達成するということは、

思考以上の何者かになったかのような満足感を得られるでしょう。



脳の目的を達成しながら空しさを感じるか、

心の目的を達成しながら満足感を得るかは、


あなた次第です。





 
魂は時間とともにあります。

では、心は?



「心」と「魂」の違いがわからない人は多いとおもいます。

「前世」の生まれ変わりなど、、、、輪廻転生を感じるのは魂です。

時間とともに存在しているからです。



では、心は?



「もし、こうしていれば、、、、。」

と、考えているのは思考でしょうか?

思考は「目的の達成」のために存在しています。

「もし、こうだったなら、、、、」

仮説や仮想は「心」による思考です。




脳による思考は、「目的達成」のために存在し、

心による思考は、「仮説・仮想」のために存在しています。

心は6次元です。

心は平行世界とともに存在しているのです。



私たちの心は平行世界を自由に行き来できます。

「もし、あのときああしてたなら、、、」

「もし、こうするとどうなるのだろう?」



「もし、こんな未来だったら、、、、」

「もし、夢が叶ったなら、、、、」



心は平行世界を行き来し、

あなたが望む現実や過去をあなたに見せるでしょう。



つまり、あなたが望む未来を造りたいなら、

その造り方を知っているのは心です。



心は、平行世界を行き来し、

どうやってそこへたどり着いたかの情報をあなたに与えるでしょう。





 
前記事の物理現象を、

仕事の話に置き換えてみましょう。



仕事は4次元です。

思考と感情が、

仕事というエネルギーに変換されたとき、

的をえていれば、

結果が出ます。



「結果」とはなんでしょう?

「目的」があって、それにむかって思考したエネルギーが

「結果」を出すとしたら?

思考と感情は4次元です。

行動も4次元です。 

振り下ろすという行為は、行動です。

思考と感情の延長線上に行動があります。


「目的」に達するための思考・感情が行動となり、

それが「結果」を生むのです。



わかりやすくいうと、

目的という点と、思考という点が真っ直ぐな線でつながっていれば、

結果を出すことができます。



まがっていたり、それていると結果を出すことはできません。




 
解決したい物事から遠いけれど、的をえた思考。



「思考する。考える。悩む。」

ということは、とても大切なことです。



物事を動かすのに、

考えずに動かすことは、物理的に無理です。

必ず考えなければなりません。

どんなに優秀な頭脳を持っていたとしても、

思考しなければ、単なる石でしかありません。

物事を動かそうとしても何も動きません。



物事を動かすには、

優秀な頭脳である必要はありません。

的をえた思考力さえあればいいのです。




悩み過ぎて精神障害を起こす、、、と人はいいます。

でも、これは間違いです。

頭脳だけが大きくて、思考しないから精神障害を起こすのです。

あるいは、思考が的を得ていないから精神障害を起こすのです。



的を得てないけれど、思考している場合は、

修正をかければいいだけです。

けれど、思考していない場合は、

思考することからはじめなければなりません。



よく、鬱や精神障害の人に、考えないようにする薬を与えますが、

これは私が思うに、危険です。

眠気を与え、思考力を奪う薬は、与えてはいけません。

考える、悩むことはとても大切です。

パニックを起こしたり、鬱になったり、、、精神障害を起こした人には、

的を得た考え方を指南することです。




 

今から、思いついた物理現象をメモります。

前後したり、話にまとまりがないかもしれません(汗)。

真剣に読むと頭がこんがらがるかも、、、しれません。





この世は次元でできています。

0次元は、点。

1次元は、線。

2次元は、平面。

3次元は、空間。

4次元は、エネルギー(仕事)

5次元は、時間。

6次元は、平行世界。


※一般には、4次元は3次元の空間に1次元の時間を組み合わせた次元といいます。

ここでは、少し違った解釈をしています。




時間は、次元によって表現が違います。

たとえば、

過去から未来へ流れているのは1次元時間です。

人によって時間の感じ方が違うのは2次元時間です。

(空間の)場所によって時間の流れ方が違うのは3次元時間です。

エネルギーによって時間が短縮したり伸びたりするのは4次元時間です。



感情は4次元の「エネルギー」です。

自分の中のエネルギーが感情となって表れます。

時間は感情に左右されます。

感情によって、短く感じたり長く感じたり。



脳は、「空間」の3次元です。

空間を感じているのは、脳です。

魂は、「時間」の5次元です。

時間を感じているのは、魂です。

思考は、4次元のエネルギーです。

思考と感情は質の違うエネルギーです。

思考は、時間を自由に行き来できます。

過去に戻ったり、未来を想像したり。



ガリレオ・ガリレイは、

釘の頭に(金づちよりもはるかに)重い物(石など)をのせても

釘は木の中にめりこんでゆかないのに、

それよりも軽い金づちで振って打つだけで釘が木材に入ってゆくのは、

何らかの力(エネルギ-)がかかっているからでは?と考えました。



思考や魂を、

この上記の物理現象にたとえると、

重い石や金づちの頭は、脳。

金づちをA地点からB地点(釘の頭)に振り下ろすときに生じるエネルギーは、

思考や感情。

釘が木材にめり込むという現象は、魂や時間。


どんなに大きな脳でも、

感情や思考がなければ、魂は動かない。

どんなに小さな脳でも、

感情や思考を、ものすごいスピードで振り下ろせば、

魂は動く。



感情や思考をものすごいスピードで振り下ろすということは、

どういうことでしょう?



A地点とB地点が離れていればいるほど、

振り下ろせばスピードは出ます。


釘の頭と振り下ろす地点の距離があればあるほど、

スピードは出ます。


釘(動かしたいもの)から思考が離れていればいるほど、

スピードは出ます。

つまり、

解決したい問題や結果を出したい物事から

離れた思考であればあるほど、

スピードが出て、

問題は解決します。あるいは、結果が出ます。



つまり、

目先の問題を解決したいとおもうならば、

目先の物事から離れた思考をすればするほど、

解決する、ということです。


目先の物事だから、

目先で解決しよう、、、と、普通の人は考えます。

けれど、実は、物理的にそれでは無理だ。ということです。




目先の問題を解決するためには、

遠いことを考える必要があります。

遠いこと、、、、けれど、

振り下ろす地点が釘の頭でなく、

的をえなかったたら、

解決にはなりません。





遠いけれど、的を得た思考、、、、、。





 
くだらないような取るに足りないと思うようなことでも、

コツコツと積み重ねることが大切です。



「そんなくだらない事して何になるの?」

そう思うような小さなことこそがとても大事なのです。



「もっとでっかい事をしたい」

夢を描くのはとても大切です。

でも、でっかい夢を描くには、小さな努力の積み重ねが必要なのです。



「すぐに大きな結果が得られるようなことをしたい」

もし、あなたがそう思っているとしたら、

あなたは気づいていないだけで、実は、破滅の道へと足を突っ込んでいます。



「すぐに大きな夢を叶えたい」というのは、物理を無視しています。

夢を叶えるには、時間と小さな努力の積み重ね、、、が必要なのです。

「大きなビルを、1日で建てたい!」と言ってるのと同じです。

大きなビルを建てるには、時間と人と材料が必要です。

夢を叶えるのもまったく同じです。

大きければ大きいほど時間と人と材料が必要です。

「大きなビルを1日で建てたい!」

それは不可能です。

つまり、言葉で語るだけで、何の現実味もないのです。

現実味がないことを言い続けるということは、

何の実もない時間を過ごすということです。



実のない時間を過ごせば過ごすほど、

ただ時間が流れていくだけです。

その先の未来に何があるというのでしょう?








 
お金は人々の価値観を統一する。


ジュースは100円である。

そうすると、だれが決めたかは置いておいたとして、

誰もがジュースは100円とおもう。



100円の価値観は人それぞれ違っても、

ジュースは100円、と、誰もが同じ認識を持つ。




たとえば、コンビニ店員の時間給が650円だとする。

家庭教師は1500円だとする。

時間給が高い仕事のほうが、仕事そのものの価値が高く見える。


ここに矛盾がある。


コンビニ店員の仕事はセンスがないと出来ないし、続かない。

家庭教師も同じだ。

仕事に優劣はないといいながら、金銭面では明らかに違う。



お金に重点を置くと、

仕事に優劣があるようにみえる。

物にも優劣があるようにみえる。

人にも優劣があるようにみえる。




すべてにおいて、金額で価値観を決めた場合、

お金に振り回されることになる。



「賃金が高いところで働きたい」

と仕事の内容云々よりも給料で決めようとする。

結果を残す残さない、仕事をするしない、向き不向きなど考えず、

「賃金が高い」という理由で就職先を考える、、、、。



自分の能力に見合った仕事、

きちんと責任もって結果を残すとか、そんなことはどうでもよくなる。



結果を残さないと仕事をしたとはいえない。

仕事をしなければ、給料泥棒と思われるかもしれない。

勤めてさえいればお給料はもらえる、、、、。

そんな社員ばかりを雇ったら、会社の未来は暗い。

倒産するかもしれない。リストラせざるをえないかもしれない。

結局、給料泥棒と判断された社員からカットされるだろう。




お金は価値観を統一するための存在でもあるが、

だからといって、

お金の価値が「物・人・仕事などの価値」を必ずしも表しているわけではない。



お金は本当に難しい存在である。

 
お金が欲しいから仕事をする。


この考えは、つまり、

結果を残すことでお金をもらう。

と、いうことだ。


結果を残さなくてもお金をもらえる、、、と、

おもっているとしたなら、

あなたは必ず勤め先や相手とトラブルだろう。



「お金が欲しいから仕事をする。」

これは、結果を残す自信のある人の言葉だ。

「勤めたらお金もらえるんでしょ?」

これは、思いやりのない人の言葉だ。



「お金ないからお金ちょうだい」

これは、幼稚すぎて思いやり以前の問題だ。



「お金は欲しいけど、結果を残せるか自信がない」

これは経験の浅い人の言葉だ。



「結果を残そうと努力したから、

その努力にたいしてお金ちょうだい」

これは甘ちゃんの言葉だ。




お金がほしいと思ったとき、

あなたが使う言葉はどれだろうか?



 
お金はものすごく矛盾した存在だ。


ジュースが100円だとすると、

Aさんにとってジュースの価値は1,000円であっても100円である。

Bさんにとってジュースの価値は50円であっても100円である。



お金はもともと「物々交換」からはじまったとすると、

きっと、大根1本欲しいとおもった人が、

大根を持っている友人への思いやりからはじまったに違いない。



お金を動かすというのは、

つまり、思いやりがベースである、ということ。

たとえば、「服が欲しい」とおもった人が、

服を売っている人から服を譲ってもらい、そのお返し・思いやりの心でもって

相手が提示している金額と交換する、、、、ということだ。



思いやりのないお客様を相手にすると、

難癖をつけられ、値切られるかもしれない。

万引きされるかもしれない。

逆に、売っている側に思いやりが欠けると、

ぼったくられるかもしれない。



売る側にしても買う側にしても、

思いやりがないと、トラブルになる。



お金を動かす場合は、

人を思いやる心が試される。





たとえば、お給料が高い・低いという問題がおこる。

これは、仕事とお金の物々交換だ。

仕事は結果を残すことなので、

結果がでない場合は、仕事をしたとはいえない。

仕事をしていない者にたいして会社は給料をしはらうとすると、

これは、つまり、

物々交換が成立していない。

「結果を残していない者」に「思いやり」が欠けている証拠だ。

もし、結果を残していない者が、会社にたいして給料が少ない、

と不満をいうとするならば、

これはトラブルである。


逆に、「結果を残した者」に会社が給料を支払わないとすると、

これも、物々交換が成立していない。

会社がそれでも給料を支払わないのであれば、

これはトラブルである。



残した結果と金額がつりあわない、、、ということもあるだろう。

自分の仕事の価値を低く見積もられると、気分を害するだろう。



ここにお金の矛盾がある。



100円のジュースは、

価値観が違っていても100円である、という矛盾。




私たちは、お金を持たない生活は出来ない。

お金が存在する限り、

矛盾からは逃れられないのだ。




これをどう受け入れればいいのか?




 
「お金」を「動かす」仕事は、

物々「交換」である。



「何か」と「お金」を交換する仕事である。


「何か」 = 「お金」 の計算式がつりあっていれば、お金は動く。


お金の価値観は人それぞれ違う。

同じ100円でも、Aさんにとっての100円とBさんにとっての100円は違う。

時代の背景の違いも影響する。



しかし、現実には、それをイコールにしなければならないという矛盾が生じる。



100円の価値観は、人それぞれ違っても、

誰にとっても100円のジュースは100円である。




価格破壊をおこす仕組みは、

100円のジュースが50円で買える、、、という事実が広まったときだ。

そうなると、50円にしなければ売れなくなるので、

自然に100円のジュースは50円になる。


100円のまま売り続けると、

売れなくなる。

どうしても100円で売りたい場合は、

ブランドや付加価値をつけねばならない。

そして、それを納得してもらえるように説明しなければならない。

同じ商品を売ることは難しくなるので、

少し変化をつけねばならない。

ジュースの場合は、「より美味しい」とか「より体にいい」という付加価値が似合う。


たとえば、衣類の場合は、

「より素材がいい」とか「よりデザインがいい」という付加価値が似合う。


たとえば、コスメの場合は、

「より肌にいい」とか「より発色がいい」という付加価値が似合う。




たとえば、「より美味しい」という付加価値をつけるには、

一般の人々の声が効果的である。

「より体にいい」「より肌にいい」というのは、医者・研究者の声が効果的である。

「よりデザインがいい」というのは、モデルやコーディネーターの声が効果的である。

(もちろんファッションリーダーの声は絶大である。)


タレントの声が効果的なのは、

エンタメやゲーム関係だ。



たとえば、あなたが「専門家」という看板を持っているとする。

この場合、ほかの専門家の声は逆効果になる。

なぜなら、「あなたが専門家」であるにも関わらず、

「ほかの専門家の声」を頼ると、お客様に矛盾を与えることになるからである。


あなたが「専門家」である場合は、

「ほかの専門家」の声はいらない。

ましてや、タレントの声は、「エンタメやゲーム」などの遊びを連想させるので、

信頼が売りの専門的な商品の場合は、

まったくもって逆効果である。



 
「仕事」とは、「何か」を「動かす」こと。


たとえば、あなたが工場で何かを組み立てているとするなら、

あなたは仕事をしたことになる。

そして、何かを組み立てていることに誇りを抱いているなら、

あなたはその仕事が合っている、ということである。



365日、何十年と同じことをしていたとしても、

仕事をしている、という誇りを胸に、充実した人生を味わっていることだろう。



物を動かす仕事。

お金を動かす仕事。

人の心を動かす仕事。



どの仕事が合うかは、人それぞれである。

仕事に高低や優劣はない。



たとえば、清掃員の仕事は、物を動かす仕事だ。

ゴミを動かす。 物を所定の位置に動かす。

物づくりも物を動かす仕事だ。

パーツを組み立てて、別の形に動かす。



たとえば、営業や販売はお金を動かす仕事だ。

お客様のお金を自分の会社・お店へと動かす。



たとえば、役者は人の心を動かす仕事だ。

人の心を動かして感動を与える。




 
自分の行動を把握しているだろうか?



たとえば、あなたが会社員だとする。

何時に起きて、会社に行き、

何時に退社して何時に家に着く。



会社にいる間に何をしたかを把握しているだろうか?

何時間事務処理をしたあと、

何時間営業で外回り。

会社にもどって事務処理をして退社。



会社の同僚と居酒屋に行き、

家に戻ったのは何時。



何時に寝て、翌朝何時に起きる。




これを365日。休日以外は同じ日々を繰り返しているとするなら、

仕事の内容が自分にあっていれば、

毎日が充実しているに違いない。


けれど、もし、自分に合わないことをしているとするならば、

心は虚しさを感じているに違いない。



とりあえず、時間が早く通り過ぎることだけを祈っているに違いない。



この人生のどこに生きる使命や目的があるのだろう?




「仕事」とは、「何か」を「動かす」ことである。

AをBに動かすと、仕事をしたことになる。

たとえば、契約を取れば、仕事をしたことになる。

契約を取るために動いたけれど、契約を取れなかった場合は、

仕事をしたことにはならない。

なぜなら、「動かそうとしたけれど、動かなかったから」である。


動かそうとした分、自分のエネルギーは消耗しただろう。

けれど、その結果、動かなかった場合は、

仕事をしたことにはならない。

ただ、エネルギーを消耗した、、、ということだけである。



合わないこととは、こういうことである。

エネルギーを消耗したが、動かない。

動く気配もない。

なんとしてでも動かしてやるという根性もない。

ただ、エネルギーを消耗するだけか、もしくは、

エネルギーを消耗したと見せかけて、何もしないかである。



合うことというのは、こういうことである。

エネルギーを消耗した分、動かした。

つまり、

消耗したエネルギー = 動かした という計算式が成り立つ。

もし、エネルギーを消耗したが動かない場合、

なんとしてでも動かしてやる、という気迫と根性でもって、

何度もトライし、人の手も借りながら、

最後には動かしたという結果を残す。



合わないことに携わるというのは、

「エネルギーを消耗するだけ」ということである。

こんな勿体無い生き方があるだろうか。

何の結果も残さず、何も動かさず、

ただ、エネルギーを消耗しただけ、、、、、。



エネルギーを消耗して、

動かしたという結果が残れば、

自分自身も満足しないだろうか?



エネルギーを消耗したが、

何も動かなかった、、、という結果は、

虚しすぎやしないだろうか?



もし、あなたが、

エネルギーを消耗しても何も動かせない。

何の結果も残せない。とするなら、

その現実自体に悔しさを感じてほしい。

「こんなにエネルギーを消耗しているのに、

なんで結果を残せないんだ!!」と、

怒りやいきどおりを感じてほしい。



エネルギーを消耗しても何も動かないことに対して、

無気力になったり、投げやりになったり、

精神的に病気になったりしている場合ではないことに

気づいてほしい。



 
合わない人と仲良くする。

合わないことに携わる。



そんなことはよくあること、、、

と、思っている人は多いだろう。



けれど、この「よくあること」が

人生に負のエネルギーを送り込んでいることを知ったら、

「よくあること」の一言で済ますことが出来るだろうか?



「希望をなくすような現実が目に付く。」

これは危険信号である。

今すぐ間違いを正さなければ、

負のスパイラルにはまりこみ、

そこから出ることが出来なくなるかもしない。

いわば、生きるか死ぬかの境目ともいえる。



「希望をなくす現実」が目に入るのは、なぜ?

この原因を知る必要がある。



実は、「希望をなくす現実」が目に入るのは、

合わないことに関わっているからだ。

合わないことに関わろうとすると、

合わない現実を見ることになる。(当然といえば当然)

そこから、すぐに離れればいいが、

離れずにそこに関わり続けると、


合わないことを見続けることになる。



そこと関わっている時間が長ければ長いほど、

たとえば、1日24時間の中で8時間合わないことと関わるとすると、

人生の3分の1を合わないことと関わっていることになる。



合わないことと関わり続けると、

トラブルに発展する危険性も大である。

トラブルに関わると、

「希望をなくす現実」を実際目の当たりにすることになる。



希望をなくす現実が目に入るのは、

実際に、希望をなくす現実の中にいる、ということ。

そこから早く抜け出さなければ、

文字通り、あなたの人生は希望がなくなる。



 
私たちは、一般に、

与えられたものに感謝し、与えられたものから考えよ、という。



けれど、

与えられていないものを探し出し、

なぜ、与えられていないのかを考える、、、という方法のほうが有効なこともある。



人は、与えられていない、持っていないものを探し出すほうが得意だ。

たとえば、他人と比べて、

「お金がある」というよりは「お金がない」。

「行動力がある」というよりは「行動力がない」。

「かわいい」というよりは「かわいくない」。

というような、否定的な事柄のほうが目に付く。



与えられていない理由を考えることこそが、

現実の矛盾、、、暗さと真剣に向き合うことになる。



なぜ、「お金がない」、のか。

なぜ、「行動力がない」のか。

なぜ、「かわいくない」のか。



お金がなければ貯めれば良い、というのは、

貯める能力のある人が言う言葉だ。

貯める能力がないから、「お金がない」のだ。

貯める能力を身につけることは、無理に等しい。

ならば、どう考えるか、だ。



稼いだお金を貯める能力の人に預ける。のも一つの方法だろう。

もしくは、つかう以上に稼ぐ、というのも方法だ。

あるいは、貯める能力がないことを受け入れ、認めてしまうのも方法だ。



お金がないけれど、どうしてもお金が必要なときはどうする?

と、将来のことを考える。

そうすると、

貯める能力の人に預ける。という方法が良い、となるだろう。

あるいは、稼ぐ能力があるなら、その能力を徹底的に伸ばす。

という方法もいいだろう。



「お金がない」という現実から目を背け、

「私はお金があるほう」と考えたり、

「なんとかなる」とか意味も脈絡もなく考えるよりかは、

ずっと現実的だ。





 
現実は矛盾だらけである。



悩みの原因は、すべて矛盾から生まれる。

相反する気持ち、相反する出来事、、、、

二面性や二極性を感じたときに、人は悩む。



悩みがない、という人は、

物事を真剣に見ていない。

すべての目の前の出来事には二面性や二極性があるのに、

それを無視しているか鈍感なのだ。



たとえば、自分は良い思いをしたいが、

人が良い思いをするのは面白くない。

これを「嫉妬」という。

「嫉妬」は、優越感に浸りたいのに劣等感を感じたときにおこる感情である。


「優越感」を得たいが「劣等感」を感じる、、、、という矛盾がおこると、

悩む。

たとえば、この感情を無視するとどうなる?

「人が良い思いをしていることを無視する。」ということだ。


自分とさして変わらないのに、

なぜ、あの人はあんな良い思いをしているの?

という自分の中の矛盾を無視するということだ。



勘のいい人なら、

「自分とさして、、、中略、、、良い思いをしてるの?」

という言葉からきっと「暗さ」を連想したに違いない。



そう、「現実の暗さ」とは、「矛盾」のこと。



「なぜ、自分だけがこんな苦しい思いをしないといけないの?」

「なぜ、あの人は恵まれてるの?」

「なぜ?」



現実の暗さを受け入れるということは、

現実の矛盾を受け入れる、ということ。



「自分だけが苦しい思いをしている」ということを受け入れる。

「自分は恵まれていない」ということを受け入れる。


たとえば、これを、

「自分だけじゃない。みんな同じように苦しんでる」

「自分は恵まれてるほうだ」

というふうに考えなさい、と、子供の頃から教え込まれている人は

少なくない。


でも、これでは矛盾の答えになっていない。



大切なのは、

「なぜ自分だけがこんな苦しい思いをしないといけないのか」

「なぜ、自分は恵まれていないのか」

この悩みを無視しないこと。

「なぜ」にこそ、生まれてきた意味や使命が隠されている。



あなたに与えられた苦しみは、あなたにだけに与えられているのだ。

他の人も同じ、、、では決してない。



「自分だけに与えられた苦しみ」

これを真摯に受け止め、その苦しみから学ぶことを忘れないように。

そうすれば、きっと、あなただけに与えられた「答え」にたどり着くことができる。



 
現実は暗い。


現実は闇。

これは、目に頼っていては何も見えない、ということ。


闇の中を歩くとき、

人は灯火を持とうとする。

灯火は言い換えれば「心」。



心が感じる明るい未来でもって、

目の前の闇を照らさなければ、

あたりは真っ暗で、

何かにぶちあたっても、

下へ転げ落ちても仕方がない。



現在が明るい、という人は、

闇を見ていない。

つまり、現実を見ていない。

彼らは、必ず、何かにぶちあたったり、

穴へ落ちたりするだろう。



「心」という灯火をもって、

明るい未来を感じながら、

闇の中を歩くものは、

どんな闇の中を歩こうが、導かれるだろう。



 
目の前の現実は、暗いし怖い。

これが現実の現実。


誰の現実も間違いなく同じ。


現実の暗さと怖さを知らないのは、

目をつぶって綱渡りをしているのと同じ。



しっかり目を開いて、

明るい未来を感じながら、

目の前の暗くて怖い現実を見る。


その逆でもいいかもしれない。

明るい未来を見ながら、

目の前の暗くて怖い現実を感じる。


どちらにしても、

現実の暗さと怖さを受け入れていないと、

必ず綱から足を踏み外す。

綱から落ちて、

やっと現実の暗さや怖さと向き合うことになるだろう。


落ちて気がつくのでもかまわない。


いつかは気がつくときがくる。



気がつくのは早いほうがいいとも、遅いほうがいいとも言えない。

早く気がつけば、地に足をつけた人生を
歩むのが早くなるというだけ。


ただ、気がつく前に死んでしまった場合は、

来世はさらに暗くて怖い人生を与えられる。


出来れば、死ぬまでには気がついたほうがいい。



現実は暗い。そういうものなのだ、と。




 
人生は暗い。


これを受け入れるというのは、どういうこと?




人生明るく楽しく!!という人は、

地に足がついていない。

現実を見ていない。



人生の暗さをどう乗り越えるか、

どう耐えるか、

と、考える人は、人生が暗いことを受け入れている。

とても現実的で地に足がついている。



目の前に考えなければいけない暗い現実があっても、

目を背けている人は、

その場限りの楽しいことに興じているはず。



目の前の暗い現実をしっかり見つめている人は、

厳しさに耐えられるだけの精神力が養われる。



「悩み事、、、とくにない」

と、言う人は、

目の前の暗い現実を無視している証拠。



しっかり現実を見ている人は、

「現実の暗さ」をわかっている。






「人生、明るく!!」なんて言う声に耳を傾けてはいけない。

「人生、悩め!!」という声こそあなたの味方。



悪魔は、必ず、あなたにこう言うだろう。

「悩むだけ損。楽しく生きれば?」と。

天使は、あなたにこう言うはずである。

「悩みなさい。そうすれば必ず道はひらける」と。


 
もし、あなたが神様や天使を身近に感じたいと思うなら、

あなたの不満や愚痴を彼らにむかって話すといい。



どうしてこんなに生きるのは辛いの?

苦しいの?

思うようにならないの?



彼らがあなたのそばにいるなら、

必ず答えてくれるはず。



もし、あなたが愚痴や不満を悪魔にむかって話したら?

悪魔が答えるだろう。





誰にむかって愚痴や不満を話しているかは、

とても大事。




天使や神様を遠く感じる人は、

彼らを明るい存在だと思っている。



天使や神様を身近に感じる人は、

彼らの暗さを知っている。



お金に暗いイメージを持っている人は、

お金を身近に感じている。

お金に明るいイメージを持っている人は、

お金に縁遠い。





明るい気持ちでいれば、

明るい未来がやってくる、、、というのは、

現実的な話ではなく、

誰の未来も明るいが、

未来が近づいて現実になれば、

暗くなる、、、、

というのが、現実である。



現実は暗く、

未来は明るい。

これが現実。



お金が欲しい人は、

お金を暗い存在として受け入れること。

恋人が欲しい人は、

恋人は暗い存在として受け入れること。

結婚したい人は、

結婚生活は暗いものとして受け入れること。

子供が欲しい人は、

子供は暗い存在として受け入れること。



それを受け入れられる人は、

欲しいものが身近になる。

つまり、手に入るということ。



暗いお金は要らない、

暗い恋人は要らない、

暗い結婚は要らない、

暗い子供は要らない、、、、

という人は、

欲しいものは手に入らない。

あるいは、手に入れると必ず後悔する。





人生は暗い。

これを受け入れられない人は、

生きてはいけない。



 
立体的な絵を描く手法は、

手前は暗い色、遠くは明るい色で描く。




これは、人の気持ちにも当てはまります。

身近な人ほど、愚痴や暗い話で盛り上がります。

関係の遠い人ほど、明るい話題で盛り上がります。


関係の遠い人には、なかなか悩み事を打ち明けることができません。

でも、関係の近い人には、自然と悩み事を話します。


暗い話題は、身近に感じやすく、

明るい話題は遠く感じます。



明るい話題で盛り上がる場所というのは、

人間関係が薄い、、、ということになります。

暗い話題で盛り上がる場所というのは、

人間関係が密、、、ということになります。



愚痴や悩み事が言えない場所は、

気持ち的には遠い場所。



そうやって、どこに属しているかで、

その場所の人間関係の密度(濃い・薄い)がわかります。


お互いの気持ちが遠い場所にいるときは、

社交辞令や表面的な話題をするのが適しています。

お互いの気持ちが近い場所にいるときは、

悩み事や愚痴を聞いてもらう場所に適しています。



私は、人生相談という仕事柄、

人の気持ちのすぐ近くにいたいな、、、と思っています。




 
信じるものは救われる、、、という言葉があります。



自分だけの力で生きている、と傲慢におもっている人は、

他人の助言に耳を傾けません。



大きな流れの中で生きている、とおもっている人は、

ほかの人の助言を必要だと感じます。



救われるのは、どちらでしょうか?



自分だけの力で生きている、とおもっている人は、

「救われる」ことすら望んでいないかもしれません。



「自分のことなんか放っておいてほしい」

と、おもっているかもしれません。



「他人に何がわかる」と思い込んでいるかもしれません。



「自分は自分のことしか考えていないのに、

他人のことを考える人なんかいない。」

そう思い込んでいるかもしれません。





人は、自分の物差しで計ります。

他人がどうおもっているかはわかりません。

自分の経験だけではわかりません。



ほんの少しだけ、

想像するだけで、世の中は変化するのに、

想像することができないのです。




もしかしたら、人の心を感じる人がいるかもしれない。

もしかしたら、見えないものが見える人がいるかもしれない。

もしかしたら、運命を知っている人がいるかもしれない。

もしかしたら、自分がおもっている世界なんて、

本当にちっぽけで取るに足りないものかもしれない。

もしかしたら、自分は何も知らないのかもしれない。

もしかしたら、自分はすばらしいテーマ・使命を持っているのかもしれない。

もしかしたら、この苦しみは何か意味があるのかもしれない。

もしかしたら、、、、、、。




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