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ある日、突然、不思議な世界に迷い込んでしまいました。今は、その目に見えない世界を通じて、多くの人々の悩みを解決しようと試みています。毎日起こる不可思議な出来事を「私らしく」お伝えしたいと思います。


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■ はじめに ■

「愛の伝言 心迷うあなたへ」6月刊行。
ただ今好評発売中です。

悩みごとのある方、人生ってなんだろう?と思っている方にオススメです。
読んでいただけると、とてもうれしいです!
 
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人生の課題が、

お金を得ることや、好きな人と両想いになること、、、、

というのはありません。



課題は、もっと崇高なものです。

大人になるのに、

お金が必要でしょうか?

好きな人と両想いになることが必要でしょうか?



人生の課題は、

大人になるために必要な課題です。



使命の課題は、

心に添うため必要な課題です。


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もちろん、「好きな人に振り向いてもらえない」とか、

「お金がない」という悩みに直面する人もいるでしょう。



その時に、

「好きな人に振り向いてもらうために、

センスを磨く」

と、考えれば、大人への第一歩です。

これを、

「好きな人に振り向いてもらうために、

嘘をつく。芝居する」

ことを思いついたり、

「好きなことして、振り向いてもらえないことを忘れよう」

としたり、、、する人は、子供です。



あるいは、

「お金を得るために盗む」

ことを思いつく人は、子供です。

「お金がないことを好きなことして忘れよう」

という人も子供です。




「お金を得るためには、社会に認められなければ。

そのためにはセンスを磨かないと」

と、考えれば、大人へ近づけます。
 
「え?好きな人と結婚して、困らない程度にお金があったら、、、って、

とってもささやかな夢だけど、

それが自分が得する生き方なの?」



と、びっくりする人もいるかもしれません。

でも、そのとおりなのです。



ささやかな夢を自慢する人もいます。

「私、高望みはしないの。現実を知ってるから。

偉いでしょ?

好きな人と結婚出来て、お金に困らなかったら、

それだけで幸せなの」


これは、裏を返せば、

「好きな人と結婚するためなら、誰かを傷つけても仕方がない。」

「お金に困らないためには、夫にしっかり働いてもらわないと」


「私のささやかな幸せを手に入れるために、

ささやかな犠牲をはらってもらっても、

悪くないわよね?」


このように、

自分が得することしか頭にない、、、、のです。




自分のセンスを磨きたい、という人は、

その先の社会貢献につながります。

センスを磨く途中で、

必ず困難が起こり悩みますが、

センスを磨くことが誰かを傷つけることになる、、、、はずはありません。

安心して悩んでください。


 

「自分が得したい。」

それを目的に生きている人も少なくありません。



自分が得する生き方=子供



いつまでも子供の立場でいたい、と望んでいる人も少なくありません。




「異性からもてて、大金持ちになって、、、、ちやほやされたい。」

そこまでは考えなかったとしても、

「好きな人と両想いになって、困らない程度にお金があって、

人から羨ましいね、っておもわれたい」


もし、あなたがそう思っているとしたら、

この考えこそが、

自分が得する生き方を望んでいる証拠です。



「自分の才能やセンスを磨いて人から認められたい」

という人は、

大人になるための課題と向き合っている人です。



「誰にも理解してもらえないかもしれない。

でも、人生をかけて成し遂げたいものがある」

という人は、

使命に向き合っている人です。


 
悩まない生き方がカッコイイとおもっている人も少なくありません。


「悩んでてもしょうがないじゃない?」

「悩みすぎたら鬱になるよ」



「悩み」は人生に与えられた課題です。

なのに、

「悩まないほうが良いよ」という人は、

「人生の課題なんて忘れたら?」

と、いってるのと同じです。



「人生に課題なんてあるわけないじゃない?」

「人生の課題って何?」

「人生に意味なんてあるわけないじゃない」


そうおもってる人も少なくないようです。



自分が得する生き方を望む人は、

子供です。

他人に認められる生き方を望む人は、

大人です。

人生の課題は、大人になるための課題とも言えます。

そして、

使命に気づく生き方を望む人は、

心に添う人です。

使命の課題は、人生の課題よりさらに奥が深く内容が難しいのです。



「悩みなんて、好きなことして忘れたら?」という人は、

「無理して大人になる必要なんてないよ。

子供でいるほうが楽でしょう?」

と、あなたに言ってるのです。



30歳になっても子供。

40歳になっても子供。

50歳になっても子供。

60歳になっても子供。

70歳、、、、、になっても子供でいたら、

あなたはどうおもいますか?



30歳、40歳以上、、、、、の人が、

「私、好きなことして悩みを忘れるようにしてるの」

と、言ってるのを聞くと、

「へえー、いいね。悩みを忘れるって」

「ポジティブだね、明るい考え方だね」

と、言います。

でも、これは、言い換えると、

「私、人生の課題は忘れることにしてるの。」と言っているのです。

「子供でいるほうが楽しいよ」

と、言ってるのです。



子供ということは、無責任で頼りがいがなく、依存心が強い、、、ということです。














 
 
アメリカでご活躍中の理論物理学者の加来道雄博士。


相棒が「michio kaku って知ってる?」と。

「誰それ?」と私。

「欧米では有名な物理学者だけど、、、日本人じゃないの?」


そこで、ネットで調べてみました。

日系三世。

理論物理学。

アメリカで本がベストセラー。

2012という映画にご出演。

日本でも何冊か本を出版している。

(超ひも理論や平行世界、、、物理はどこまでSFを現実にするか?というような内容です)



「人は、はじめて見たものを経験から分析したがる。

しかし、はじめてのものだから経験で分析出来るわけがない。

もっと、頭を柔軟にして、想像力を膨らまして考えよう。」

と、いう持論をもっていらっしゃるようです。



私の理解出来る範囲内でyoutubeの動画を理解しようと試みました。

なんせ、日本語訳がない!!

すべて英語。しかも専門用語。

でも、博士の英語はわかりやすい。聞き取りやすい。



カタコト英会話しか出来ない私でも、

ある程度は理解出来ました。



博士の人類に対する希望は、とてつもなく大きいのです。

「何十億年後かに、太陽やわれわれの惑星が死滅するとき、

われわれは平行世界に逃亡するという偉業を成し遂げるかもしれない。」


人類は、たとえどんなことがあっても生き延びるに違いない!と。



すごいです。

私なんて、太陽が膨張しはじめたら、人類は絶滅するだろうな、、、

と、考えていたので、

博士の夢というか希望というか、

「人類はそんなやわな存在じゃない!」という確固たる信念というか、、、。



「どうせ、死んだら終わりでしょ?」

と考えている人がいる中で、

「地球が滅亡しても、人類は生き延びるであろう」

と想像している博士。



同じ時間に同じ地球に住んでいるのに、

この差は、どこからくるのだろう?



悩まないからポジティブになれるのかというと、

実は、現実は、その逆です。

悩む人ほどポジティブな思考力が発達するのです。



悩みを忘れようとする人や、

悩みから逃げてる人は、

ポジティブな思考力は育ちません。



明るく振舞うことは出来ても、

思考の中は闇です。真っ暗です。

自分自身を見失っています。

だから、周囲の真似事しか出来なくなるのです。

あるいは、表向きや体裁だけは整っているけど、

内情はごみの山なのです。

表面は繕っていても、中身がないのです。



悩みと向き合っている人は、

悩みを解決するための思考力が発達します。

悩みを解決してきた人ほど、

中身が充実しているのです。



博士は、とてつもなく大きな悩みに直面しながら、

それを解決してきたに違いありません。



「悩み?特にないなぁ、、、」なんておもってる人は、

悩みがないのではなく、

悩みに鈍感か、もしくは逃げてるか、忘れてる人です。

生きていて、寸分も悩まない人などこの世にはいません。


でも、悩むのが面倒くさくて、

忘れてるほうが楽という人は、少なくないと思います。



「したいことして、悩みなんて忘れたら?」

そういうアドバイスをする人も多いと思います。



でも、私はあえて言います。

「大いに悩みましょう。

悩みと向き合って解決しましょう。

そこで得た答えは、あなたの使命とつながっているからです」




 
 

悩みを持っていて、それを解決したいとおもう人は、

それだけで素敵な人になれる切符を手にしているといえるでしょう。



悩みを忘れようとする人は、

目の前の楽しさや快楽だけを求めるでしょう。



人は、皆、使命を持って生まれてきています。

けれど、使命に全く興味のない生き方を選んでいる人も多いものです。



師匠のおじいちゃんいわく、

悩みと使命のレベルを見ると、


レベル1は、

幾つになっても子供でいたい、誰かにいつも加護されていたい、

というレベルです。

常に周囲に甘えているレベルです。


レベル2は、

自分のわがままを通したいレベルです。


レベル3は、

楽な道に逃げたいレベルです。


レベル4は、

したいことをして、悩み事や嫌なことを忘れたいレベルです。


レベル5は、

相手の立場を考えるレベルです。

悩み事と向き合えるようになるのは、このレベルからです。


レベル6は、

異性としての役割を考えるレベルです。

異性と支えあいながら悩み事を解決しようとするレベルです。


レベル7は、

悩み事と使命の関連性に気がつくレベルです。

悩み事を解決することが使命につながることを感じるレベルです。


レベル8は、

使命をつかもうとするレベルです。

使命の道に乗ろうと努力するレベルです。


レベル9は、

使命を貫くレベルです。


レベル10は、

関わる人々に、使命を感じさせるレベルです。

存在自体が、使命の重要性を投げかけるレベルです。




悩み事を忘れて、したいことをする。

忘れるために目の前のことに興じる。

これでは、いつまでたっても使命に気がつきません。

自分の人生こんなもの、と開き直っているともいえます。



「生まれてきた意味?そんなものない。」

「意味なんか考えるより、したいことするほうがいい」

「いずれ死ぬんだから、生きてる間くらいは好きなことさせてよ」

という人生を歩むのか、


「人生を全うしたい」

「人生は修行だ。修行を積んで、自分の意識を高めたい」

「何かを遺してこの世を離れたい」

という人生を歩むのかは、

あなた次第です。



 
違い、、、とは何でしょう?


違いって、とても大切です。

あなたと私は違う。

この違いが個性とも言えます。



違いは文化です。

たとえば、日本人とアメリカ人は違います。

見た目も言葉も考え方や価値観も違います。



違うのに同じように振舞うと、文化にはなりません。
 

私とあなたの文化は違う。

たとえ、同じ日本人だとしても違う。



国レベルの文化の違い。

地域レベルの文化の違い。

町レベルの文化の違い。

家系レベルの文化の違い。

個人レベルの文化の違い、、、、。



たとえば、営業の仕事をしている人は、

物事を営業の視点で見ているでしょうし、

先生をしている人は、先生の視点で見ているでしょうし、

主婦は主婦の視点、

学生は学生の視点、

作家は作家の視点、

スポーツ選手はスポーツ選手の視点、、、、

というふうに、

その人の生業としているもので、視点は違って当然です。

逆に、誰もが同じ視点だと不自然です。




視点の違い、物事の捉え方の違い、価値観の違い、、、、

そういった違いが文化につながります。



違いを表現するのは、

文化を表現することにつながります。



違いは魅力です。

その人の魅力になります。


同じであるということは、魅力がないとも言えます。


もちろん、違いを表現すると、好き嫌いもはっきりと出てくるでしょう。

けれど、同じであることを表現すると、

すべて中途半端で、好きとも嫌いとも思われないかもしれません。



また、違いは情報そのものであるとも言えます。

同じだと何の情報も得られません。

でも、違うと「違う」というだけで新しい情報になるのです。



情報の発信源になりたいのなら、

違いを表現することです。



違っているのに、違いを隠すということは、

宝の持ち腐れになります。



違いは宝です。



このように、他者との違いを表現することは、

宝であり、情報であり、魅力であり、文化であるのです。





もし、あなたが考えていることが、

世界であなたしか考えていないことだったら、オンリーワンになれるのです。




 
文化を築く、、、ということに、大変興味があります。



心の探求も、人間の本質を理解する文化だと思っています。

心の探求から理解したことを使って、

ご相談を受けるのも文化だと思っています。


一見、個人的なレベルの悩み事を、

単なる悩みではなく、

文化である、と捉えています。

悩みも文化、だと私は思っています。




なので、ご相談者さまは、単に悩み事を解決したいと思ってこられていても、

最終的には、自分という存在の崇高さや可能性を感じていただけるように、

お話させていただきます。




今日の私の「フェイスブックとは?」という疑問、、、から生じる悩みも、

これもいわゆる文化なのだと。

フェイスブックという文化を受け入れられるかどうか、、、ということは、

自分も文化の担い手として、

違和感を感じるということは、

自分の中にある崇高さとフェイスブックという文化が合わない、ということなのだ、

と、分析できます。(あ、正確には分析できました、です)



けれども、そんな状況の中、

ではどうやってフェイスブックという文化を取り込むかというと、

自分の中の崇高さを崩さない形、、、で参加する、

というところでなんとなく落ち着きました。


ブログを書くのは好きですし、(これも文化を築く上で欠かせません)

書いたものは読んでもらえると、とても嬉しいものです。

ブログは、コメがあろうがなかろうが、まったく気にならないですし、

何を書いても、私自身が文化を書いているという自負があるので、

楽しく書けるのです。



と、いうことで、ブログを更新したことをフェイスブックにひたすら載せていこうかな、と。



それで、興味を持った人が、静かに読んでいただければ嬉しいな、と。




そんなこんなで、今日の疑問にとりあえずの回答を出した私、、、でした。



 
物を作っていても、物を売りたいわけではありません。


それは、物を作っている作家業に携わっている人なら、

ほとんどの人がそう思っています。



自分の作った物を欲しいと思う人がいて、

その人の手に渡るとそれで幸せなのです。



そのときに、手に入れた人が「気持ち」を伝えるために、

金銭という形で交換する、、、というのが理想的です。



無理やり買う、買わされる、、、、というやりとりは、

作家はとても苦手です。



物作りは文化です。

文化というのは、本来は、下品の反対、、、崇高なものです。

崇高なもの、、、を、買う買わないという次元に落とし込むのは不可能なのです。

値をつけるのも、本当に難しいのです。




 
6月に本を出版します。

心について書いています。



物書くのが本当に好きなんです、私。

今回、本を出すにあたってしみじみと感じてます。



書きたいことがいっぱいあると心の底から幸せと感じるのです。

逆に、書きたいことが見当たらないときは、

心配になるほどです。



ブログを書いてると、時間が足りません。

書きたいことのネタ帳としてもブログを使ってるのですが、

どんどん話は尽きません。



でも、本を出すにあたって、かなりのエネルギーを消耗したので、

充填せねばならない、と感じています。

それが、第2校が届いて急に、、、なんです。


初校のときも、それまでも書き上げてから半年ほど時間がたっていて、

今までどおり変わりなく、なんともなかったのですが、

どうして第2校を受け取ってから急に、、、、なのか不思議です。



形になることを実感したから?

ホッとしたから?

それとも、これから形になるためのエネルギーを取られてる?



エネルギー充填のために、外界を遮断したい、、、というのが本音です。



答えは自分の心の中にあります。

外に求めても答えはありません。

心の探検家として、もっともっと奥深いところへもぐっていく必要があるのだと、

その必要性を感じています。




自分が自分であるために。


 

物作りというのは、外界をできるだけ遮断しているほうが集中します。


なのに、デパートとかギャラリーとかで展示会をすると、

作家がいないと売れない、売れにくい、と言うのです。



作家は、物作りのエキスパートであったとしても、

販売のエキスパートではありません。
(もちろん、販売上手な方もいらっしゃいます)

これって、、、どういう事なんだろう?と思うのです。



外界を遮断して集中して物を作るべき人が、

外界と接して物を売らねばならない、、、という現実環境。



もちろん有名人ならば、

名前だけで人が集まるし物も売れるのでしょうけれど、

無名人としては、物も作り販売もし、、、人も集め、、、、と、大変です。

でも、こんなときこそ、真の人とのつながりが問われるような気がします。



物作りのエキスパート、人集めのエキスパート、販売のエキスパート、、、

と、分野分野に精通している人が集まれば、

すごくいい環境が作られるのでは?と思うのです。



それが、人と人とがつながる意味なのではないでしょうか?



そうなると仲間に加わりたいと思うならば、

何かに秀でるかエキスパートである必要が出てきます。

そうなるために努力する、という前向きな姿勢が自然とわいてくるでしょう。



実際の現実の不条理をひしひしと感じる今日この頃です。


 
常に疑問を感じながら、

これでいいのだろうか?と考えながら進むことって大切だと思うのです。



疑問を持つのは否定しているわけではありません。

けれど、何かをはじめるときには、

漠然とはじめるのではなく、

何のために?ということをしっかり理解してするほうが良いと思うのです。



心が感じることを、素直に表現してみる。

間違ってる正しいというのではなく、

このひっかかりは何だろう?とか、

私だけなのかな?と投げかけてみたり、、、。



日本人には日本人に合う方法があるはずでは?と思ってみたり、、、。





ということで、

私と同じようにフェイスブックに違和感を持ってる人がいるのでは?と思って、

ネットで調べてみました。



やっぱり、いるいる!!

同じ同じ!!

私だけでなくてよかった~~~、とホッと一息。





海外では、旧知のお友達とつながるために使用している人が多いらしい。

簡単に情報が手に入るからという理由で使用している人も多いらしい。

寂しさを紛らわすために始める人も多いらしい。

アメリカでは名刺がわりに使用している人も多いらしい。



では、日本はどうだろう?



私もフェイスブックを使い続けるなら、

名刺代わりに、、、というのが、一番しっくりくる、、、かも。



フェイスブックは閉ざされた空間と表現している人もいて、

な~るほど、と妙に納得。

「閉ざされた空間」だからこそ、自分の発言に責任を持たねばならぬ、と。

それが、かえって負担や重荷に感じて、フェイスブックができない人も大勢いる、と。



実際、

ちょっとした出来事を書いていても、

誤解されてるんじゃないか?という恐怖感を抱いてしまう私。

「いいね!」もコメントも何もないと、

無視されてるのかな?とか余計なことが気になるし、、、。


あるいは、何か誤解されるようなこと書いた?とか。

あれこれ気にしてしまう私がいます。

結局、これってフェイスブックの世界観に振り回されてる???と。



向いてない、、、、の一言に尽きるのかもしれませんが、

はじめて1週間で断念しそうです、、、。


いなくなっても、気にしないでくださいね~~~(汗)



 
人と人とがつながることは、良いことです。



でも、つながりかたって、、、あると思うのです。

何でもかんでもつながればいい話でもない!と思うのです。



フェイスブックは、欧米人には向いてると思います。

誰もが気軽に「ハイ!」「やあ!」と声をかけあう世界です。



でも、日本人って、、、、どちらかというと恥ずかしがり屋で引っ込み思案で、

(そこが日本国民のいいところでもあり悪いところでもありますが)

どちらにしても、

「気軽」という言葉に抵抗を感じる国民なのでは?と思うのです。



慎重に慎重に、、、、というのが日本人です。

(かくいう私も日本にいるとそうです)



なので、いきなり登場して、

「今、こんなことしてま~す」というのは、

ものすごく抵抗があります。



フェイスブックのやり方というか形が合わない。

と、思っているのは私だけでしょうか??


 
フェイスブックは、昔からの知人・友人がやっていない、、、

という事実。



仕事のツールとして使ってる人が多いという話ですが、

確かに、何か依頼したいことがあったときに、

「突然ですが、、、」というよりも、

ある程度、フェイスブックで日々の行動を認知していただいていたほうが、

依頼しやすいというのはあるかもしれません。



と、いうことで続けて更新しています。



でも、仕事上のご縁の人が多い中で、

「すみません、お友達申請してもらっていいですか?」というのも、、、

抵抗があります。

本音をいうと、

なんでフェイスブックが「友達申請」という言葉を使っているのかわからない。



お友達をつくりましょう、、、って、

学校、学生のノリ??と正直思う私です。



英語でfreind というのと、日本語の友達はちょっとニュアンスが違うと思うのです。

英語のフレンドは、お互いを支えあう、、、というような感覚が入っています。

でも、日本語の友達だと、一緒に楽しいことをする仲間、、、

という感覚のほうを強く感じます。




とにかくフェイスブックに

すごく違和感を感じるのは、私だけでしょうか???



 
フェイスブックとかだと、本当の気持ちは綴れません。

やはり、体裁とかいろいろと考えてしまうからです。


暗い話をするわけにもいかず、、、。

何となくノリでやってます。


深く考えずに更新するのが一番いいのでしょうね、、、と、おもっています。

それが、自分らしいのか自分らしくないのかというと、

自分らしくはない!ですが、、、。

表立って社会と関わるのにあまり向いてないのかも??しれません。



やはり、一人で黙々と作業を続けているほうが自分らしいな、、、と思います。



相談の仕事も、

人には言えない悩みを抱えた人たちのための相談所のようなものなので、

ひっそりと運営してるほうが合ってるのかもしれません。

隠れ家的な感じです。



ブログもひっそりと更新するほうが向いてる、、、と思っています。



ただ、本は、より大勢の人に読んでもらいたいと思って出版することに決めたので、

本は、どんどん表立って社会と関わっていけるといいな、と思ってます。

本が一人立ちして、勝手に一人歩きしてくれることを願っています。



 
本の第2校が届きました。

とてもいい感じに仕上がりそうです。



それで、今、すごく感じていることなのですが、

本を出すまでこんな体験をしたことがなかったので、

何と表現したらいいのか、、、、。



自分の中の何かを表現して、形にして、より多くの人に知ってもらう、、、

とうのは、表現者(たとえば、作家、アーティスト、芸能人、、、、)の仕事です。



コンスタンスにある程度のレベルのものを表現し続ける人と、

一つ、ドカンと大きなものを表現すると、次に続かない人がいます。

いわゆる「一発屋」といわれる人です。



今、一発屋といわれる人の心境を、ものすごく感じてます。

「ああ、こういうことなのか」と。



自分の中にずっと蓄積していた物を出すと、

その出すものにエネルギーをとられるのです。

それも、すごい量です。




燃え尽きる、、、とか、

ぽっかり穴があく、、、とか、

そんな言葉では足りないかもしれません。



自分の中にあったものが、忽然となくなる、、、という感じです。

あったものがなくなる!!のです。

どんな感覚かわかります??



本当の苦悩や戦い??は、これからはじまるのだな、、、と、

今、痛感しています。



まずは、自分の中にあったものを取り戻さねばなりません。

1からやり直す感じです。









 
哲学は、生きるうえで無駄なものでしょうか?



子供の頃も、大人と同じようにいろんなわずらわしいことが

たくさん起こりました。


でも、そんな中でも子供は、

夢を抱きます。

利益を考えるでもなく純粋に、

こんな人になりたいな、、、と考えます。



それが、大人になるたびに、

夢よりも利益を追求するようになり、、、、。



それが衰えるということなのかもしれません。



目先の現実ばかりに気持ちを奪われて、

心を省みる時間がなくなります。





「哲学?

哲学では食べていけないでしょう?

それよりも現実的に食べていけることを考えたら?」

そう思っている人は少なくないでしょう。




思い込みの罠にはまって、

同じ悩みをクルクル考えることは「哲学」ではありません。




哲学は、自分の心や人生を顧(省)みて、

分析することです。




もしかしたら、とても大切なことを見過ごしているかもしれません。




それを、今一度振り返って思い出すのです。




私は無宗教者ですが、

新約聖書の中に、こんなストーリーがあります。

キリストの話を聞くために、

目先の雑用を投げ出す女性と、

キリストを接待するために、

目先の雑用におわれる女性。



雑用におわれている女性が、キリストにこう言います。

「あなたの話を聞いている女性に、雑用を手伝うように言ってください」と。

その女性に対してキリストは、

「神に愛されるのはあなたではなく、

目先のことを投げ出して、私の話を聞く女性である」と。





何が一番大事で、

今、すべきことは何か、、、、

それを分析して考える時間はとても大切です。


それが「哲学」なのです。



 
私は、子供の頃から不思議でなりませんでした。


どうして、宇宙という広大な空間に生きているのに、

目の前の些細なことに苛立ったり、

悲しんだり、

喜んだり、、、、

振り回されているのだろう、と。



広大な宇宙空間と対比するように、

狭い世界観の中で生きているという矛盾。



それは、なぜ?



宇宙の中で生きているのは真実なのに、

まるで、世界は点よりも小さいかのよう。



それは、なぜ?



宇宙空間から見た地球は、

とても小さくて、点のように小さくて、

その中で生きている私たちは、

目に見えないほど小さくて、

あっという間に生まれたかと思うと死んでしまう。



油断してたら、気がつかないほど、

とてももろくて儚くて、、、。



命は、まるで一瞬の火花のよう。



けれど、どんなに小さい存在だとしても、

私たちは、広大な宇宙空間に生きているというのは、

間違いないのです。



小さいからこそ、皆がひとつにならないと、

皆がばらばらに生きていたのでは、

本当に、本当に、虚しい存在でしかなくなります。

過去にも未来にもつながって、

同じ時間に生きている人同士もつながって、

そうして、少しでも大きい存在にならないと、

私たちは、誰にも気づいてもらえません。



誰にも救ってもらえません。



宇宙に生きている意味がわかりません。



私たちは、宇宙に生まれている、、、、

この意味を見つけないと、

本当に、何のための人生かわかりません。




地球人としての目的。

地球人として行き着く先はどこ?




人類としての大きな目標を見つけないと、

宇宙の中で塵となってもくずとなって、

吹き飛ばされて消えてしまいます。




 



Let's start over again
Why can't we start it over again?

Just let us start it over again

And we'll be good
This time we'll get it...
Get it right

It's our last chance to forgive ourselves



もう一度やり直そう

やり直せない理由なんてないだろう?


ただ もう一度やり直そう


そうすれば 今度こそ

今度こそ 同じ過ちは繰り返さない


これが ぼくたちに与えられた最後のチャンスなんだ






誰もが、生きていることに感謝しているのに

誰もが、すべての命に愛を感じているのに

どうして、目の前の苦しみに負けてしまうのでしょう。



見栄や体裁を保つために、どれだけ無理をしているのかがわからないのでしょう。



自分の心に素直になれば、

険しい岩山は平原にかわり、

荒々しい波は、

静けさを取り戻すでしょう。




時間は無常にも通り過ぎ、

後戻りは出来ません。

どんなにどんなに懇願しても、

誰も時間を戻すことは出来ません。




虚栄心は、あなたに無理をさせます。

無理をすると、ひずみが出来ます。

ひずみはどんどんと大きくなり、大きな穴を作ります。

大きな穴は、あなただけでなく、周囲も巻き込んで

どんどんどんどん大きくなります。



穴に落ちた後に、あなたはやっと気がつくのです。




取り返しのつかないことになる前に、

虚栄心を捨てて、自分の心に素直になること。




ありのままの自分を受け入れること。

ありのままの人生を受け入れること。

幸せも不幸もすべてそのまま受け入れること。




命は、人間だけのものではありません。

地球は、人間だけのものではありません。





 
芸人の鉄拳さんのパラパラ漫画に、すごく感動しました。


今も、まだ余韻が残っています。


人生の喜びや楽しさ、やるせない悲しさや辛さ、苦しさが、

たった3分という短い時間の中にこめられてます。








 
自信とは、なんでしょう?

自信を持てないという人は少なくありません。



自信を持とうとすると、かえって自信がないところが目に付きます。

自信は、持つものではなく、

自分の行動の結果を受け取ったときに、

わきおこる感情です。


自分が願うような結果が返ってきたら、自信がわきおこります。

けれど、自分が願うような結果が返ってこなかったら、

自信をなくす、、、失望という感情がわきおこります。



行動に結果が伴えば、自信になり、

行動に結果が伴わなければ、失望します。



失望した場合は、

行動に修正をかけることです。

結果が伴うまで、何度も何度も修正すればいいのです。



もしかしたら、最初に願っていた結果よりも、

違う結果を望むようになるかもしれません。

望む結果の内容が間違っている場合もあるからです。



行動と結果に修正をかけながら、

前へ前へと進んでいけば、

あなたが想像するよりも、ずっといい場所へたどりつけるでしょう。




 
いろいろな目に見えないものの影響を受けます。

でも、これは使命に関わっていることなので、仕方がないと思っています。



何の影響も受けたくなければ、

使命を捨てるか、もしくは、別の生き方を選ぶ必要があります。



私は、自分の使命を誇りに思っています。

この使命のない人生を歩くくらいなら、死んだほうがマシ、、、と思っているくらいです。



使命が、他の人たちとの違いを明白にし、

私の独特な世界観を作り上げています。

でも、これが私の個性なのだ、と実感しています。



今日、facebook をはじめて試してみて、

ものすごく考えさせられることがありました。



あきらかに、私は他の人と違う!!!と。



この違いはいったい何???と。



全く違う世界にすんでいる、、、、という事実確認をするために、

facebook を試してみた、、、いえ、試しにさせられた、、、

といったほうが正しい?かもしれません。



twitter も試しにしてみましたが、これも同じです。

違う!!!と。

私は、きっと、おそらく、いえ、間違いなく、

他の人とは違う世界にすんでいます。



ある意味、独りなのかもしれません。

誰も知らない世界にすんでいるのです。

だからこそ、「より強くならなければ!!!」と思います。


目に見えない世界に迷い込んだこと、それこそが、すべての始まりであり、

それこそが真の孤独との戦いであり、

それこそが、前人未到の世界を解明することにつながるのだ、と。

誰にもわかってもらえなくても、

私という人間がたった独りでたどり着いた世界、、、、

それこそが、私の使命であり、生きている証拠でもある、と。







それを痛いほど実感した今日この頃です。



 
トラブルの種よりももっとひどい「死の種」というのがあります。



「死の種」は、文字どおり「死を招く種」です。

死の種も、誰もが持っています。

この種に水をやると、どんどん育って大きくなり、

ついには周囲も巻き込みながら死・破壊・絶滅、、、の花を咲かせます。



決して、水をやってはいけません。




たとえば、お金の部分に「死の種」を持っている人は、

お金が絡むと必ず、破産します。

それも、周囲を巻き込みながら破産します。

関わった人も、破産するのです。



絶対に、お金に関わらないこと、、、つまり、

金銭的な部分を管理しないこと、です。

自分の思い通りにしてやろう、、、なんていう色気を出さないことです。




これも同じように、私の目には「黒いもの」で見えます。


 
トラブルの種。

これは、誰もが持っています。



もちろん、人それぞれ種の種類は違います。

トラブルの種に水をやると、

トラブルは、どんどん育って大きくなります。



周囲の人も巻き込みながら大きくなります。



トラブルの種に水をやらない努力が必要です。





たとえば、お金のトラブルの種を持っているとしたら、

お金のトラブルに水をやらないというのは、どういうことでしょう?



金銭的なことは人に任せる。 自分で管理しない。

お金が絡むと、必ずトラブルになるので、

自分からはお金に関する話はしない、という努力が必要です。





これを前記事の「黒いもの」に言い換えると、

お金に関することに「黒いもの」がとりついている、、、ということになります。

お金が絡むと、「黒いもの」があらわれ、とりつくのです。





 
私が、相談を受けるときに気をつけているのは、

「黒いもの」にとりつかれている場合の相談、、、です。



目に見えるトラブルにあっている人の相談の場合、

その人を通じて感じる「黒いもの」に影響を受けると、

私も判断できなくなってしまいます。

そこで、その影響を受けないために、

相談者さまにわざと距離を置く、、、のです。



つまり、「相談者さまに共感しない」ことを心がけます。

冷たいくらい突き放したり、きつい言葉をかけることもあります。

これは、相談者さまに対して行っていることではなく、

相談者さまから感じる「黒いもの」に感化されないためにしています。



あるイベントで、相談を受けていた私を見ていた人が、

ものすごくはっきりと、

ある意味きついくらいの言葉をかけているのを見て、

びっくりした、といわれたことがあります。





普段の私は、どちらかというと癒し系でほわんとした印象で、

物言いもおっとりしているのですが、

「黒いもの」と戦っているときは、

険しい表情で、はっきりと物を言うので、まるで別人、、、、に見えるようです。



でも、それで、

「正常な判断」を相談者さまが受け取れば、

「黒いもの」はいなくなるので、

徐々に物事は解決、、、早ければあっという間に物事は収まるのです。


 
たとえば、ココ丸を例にすると、


「黒いもの」がとりついて病気になった。

私もその「黒いもの」に惑わされて正常な判断力を失いかけた。

正常な判断力を失いかけながらも、

必死で物理的な解決方法を探した。

もちろん、病院にも連れていった。

でも、お医者さまも、ココ丸の病気の本当の原因がわからなかった。

まずは「見えない黒いもの」を追い払わなければならない。

どうやって?



「黒いもの」に惑わされると、

霊感やそういった類もセンサーが鈍る、、、というか、

わかりやすくいうと、

コンパスの針があっちへこっちへと揺れ動きとまらない感じです。

なので、自分の力はあてにならない。

ヒーリングはどうだろう?

ココ丸の魂を正常に感じ取れるのを確認して、

ココ丸の魂に従う。



2日ほどたって、「黒いもの」がいつのまにかいなくなっていることに気がつく。

再度、病院に連れていく。

注射を打ってもらったり、それなりに処方してもらい、

ココ丸はみるみる順調に回復していった、、、、のです。




「黒いもの」がいると、精神的にも不安定になります。

でも、いなくなると、安心します。

正常な世界を取り戻した安堵感、、、、を感じます。




 
「黒いもの」は、人を惑わします。


「黒いもの」に触れると、対処の仕方がわからなくなります。

冷静な判断が出来なくなります。



「黒いもの」は、物理的に介入してきます。

「黒いもの」にとりつかれた人の持ち物にも、

「黒いもの」がとりつているのです。



トラブルが形になった「黒いもの」。






では、トラブルとはいったい何でしょう?


トラブルは、合う・合わないとはまた別のものです。

合わないからトラブルのではありません。

トラブルは、物理現象として見える形であらわれます。

見えないトラブルは、トラブルではありません。



トラブルは、物理上の不具合です。

たとえば、

金銭トラブルは、物理的に返済出来ないほどの借金を背負ったときに

起こります。


人間関係のトラブルは、誤解やイジメ、因縁や暴力、不倫など、

誰が見てもわかります。



トラブルは、物理現象なのです。



私が見える世界では、

このトラブルが「黒いもの」で見えるのです。

そして、この「黒いもの」は、トラブルのもととなっている人や、

人の持ち物からも見えるのです。

そして、その人や持ち物からみえる「黒いもの」に触れると、

たちまち冷静な判断力が低下し、

物理的な解決方法がわからなくなるのです。




前記事の愛猫のココ丸を例にすると、

ココ丸のそばにいた「黒いもの」に触れたとたん、

ココ丸が苦しそうにしていて、病気なのはわかるけど、

どのように対処したらいいのかわからなくなるのです。

苦しそうなココ丸を見ながら、

「神に祈るしかない」とか考え始めるのです。



「神様、お願い、ココ丸を助けて」とか祈り始めるのです。




実際、私は、「神様」と祈りたくなる自分を客観的に見るもう一人の自分が、

「ちょっと、待って。神様に祈っても何の解決にもならないのに、

何で祈りたくなってるの?変だ。おかしい。」

そこで「黒いもの」惑わされている自分に気がつき、

正気を取り戻すべく、

必死で物理的な解決方法をネットで検索したりして、

「黒いもの」を振りきるのに必死だったのです。



つまり、「黒いもの」がとりついて病気になった場合、

対処法がわからなくるので、結果、正しい治療が施されずに、

さらに病状が悪化する、、、という経緯をたどることになるのです。

医者の誤診や、治療ミスは、患者の「黒いもの」に触れることによって

引き起こされている可能性も少なくないのでは?と想像できます。




あるいは、「黒いもの」にとりつかれている人が、家族にいる場合、

家族が正常な判断が出来なくなり、

さらにその身内を不幸へと突き落とす、、、こともおおいにあると思います。





まずは、「黒いもの」を祓いながら、

正常な判断が出来るところへもっていく必要があります。

正常な判断力は、「黒いもの」がもっとも嫌うものだからです。



 
「黒いもの」が見える。

それをただ怖い!と思うだけでは、

見えないほうがマシです。




見えることには意味があります。

そこに使命を感じます。



なぜ、見えるのか?



それこそが、私の人生の使命に関係しているのだ、と思うのです。




たとえば、ココ丸のそばに「黒いもの」が見えた。

だから、私は、この「黒いもの」を追い払えないか、と思って、

ココ丸にヒーリングをし続けた、、、、のです。

幸い、ココ丸の魂は、ココ丸の肉体の中にとどまろうと頑張っていたので、

その魂のお手伝いをするだけで済みました。

結果、ココ丸は順調に回復しています。




 
私の解釈では、

映像で見えるときは、超能力。

声やイメージで感じるときは、霊能力。

と、思っています。




「黒いもの」が存在しています。

この「黒いもの」は、普通の人には見えません。

私の目には、この「黒いもの」が、

「人型」だったり、「鳥型」だったり、「昆虫型」だったり、、、します。



「黒いもの」は、はっきりと見えます。

そして、実際に、物理現象を引き起こすことがあります。

「黒いもの」が物質に触ると、物質が動く、、、、のです。





たとえば、

これは実際に見たことなんですが、

全長1mほどある「見えない黒い鳥」が、ある会場の中を飛んでいました。

それが、壷にあたったとたん、壷が倒れたのです。



「黒い鳥」は、病気とか死に関係しているようで、

病院の周りを群れて飛んでいるのを見たことがあります。

その中の1羽に、私の心臓をつかまれたことがあります。

メチャクチャ痛かったです、、、、(涙)。

私は、車の中にいたのですが、車の窓ガラスを突き抜けて、

私の心臓をつかんだのです。




ある時には、

「黒い人」が、知人の近くにいるのを見ました。

別れ際、知人が私に手を振っているその後ろで、

「黒い人」が手を振っているのを見ました。

この「黒い人」は、そのあとも、何度か知人の家でみることがありました。





「黒いもの」は、トラブルを表すようです。

トラブルが形になったものが、「黒いもの」だそうです。

(おじいちゃん曰く)





そういえば、、、、数日前に、

愛猫のココ丸のそばに「黒いもの」が見えたので、



うわ~~~~、見えちゃった、、、、。なんだろう、嫌だな、、、、、。



と、思っていたら、ココ丸が急に病気になり、

死ぬんじゃない?と心配するくらい症状が悪くなり、、、、。

(今は、順調に回復してます^^。)

本当に死に掛けてたのでは?と思うのは、

ココ丸から出ているエネルギーを感じると、

涙がとまらないくらい悲しくなり、、、、。

私自身も生きた心地がしなかったのです。




よく「スーパーナチュラル」の中で見る

黒い煙。

あれも、実際見ることがあります。





あーいうのって、映画やドラマの中だけのもの、、、ではないのです。

ちなみに、この「黒いもの」は霊能力で見えているのでは?

と、分析しています。



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